東京高等裁判所 昭和35年(う)2056号 判決 1961年7月18日
控訴人 被告人 大島英三郎 外一名
弁護人 寺本勤 外三名
検察官 鯉沼昌三 山口鉄四郎 原長栄
主文
本件各控訴を棄却する。
当審における未決勾留日数中各二百四十日を被告人大島英三郎の原判決第一の罪の刑及び被告人茂木健司の原判決の刑にそれぞれ算入する。
当審における訴訟費用中、証人大島喜美子、同那波蔀、同古畑種基に支給した分は被告人両名の連帯負担とし証人朴京吾、同吉井秀男に支給した分は被告人大島英三郎の負担とする。
理由
寺本弁護人の控訴趣意第二及び佐藤弁護人の控訴趣意二について、
所論はいずれも人に空気栓塞を起すためには多量の空気を注入することを要し、三〇C・C乃至四〇C・C程度の空気を人の静脈に注射しても死の結果は生じないのであるから、被告人等の行為は、人を殺す行為とはいえず本件は不能犯で罪とならないというのである。按ずるに人の静脈内に空気を注射し、空気栓塞による死を来たすための致死量は、原判決挙示の古畑種基作成の鑑定書と題する書面によれば七〇C・C以上であるといい、同じく鑑定人中館久平作成の鑑定書によれば三〇〇C・C内外であるというのであつて、三〇C・C乃至四〇C・Cの空気を注入したのみでは、通常人を死に致すことはできないこと所論のとおりである。しかし医師でない一般人は人の血管内に少しでも空気を注入すればその人は死亡するに至るものと観念されていたことは、被告人等四名がいずれも同様観念していた事実及び当審における証人古畑種基の証言に微し明らかであるから、人体の静脈に空気を注射することはその量の多少に拘らず人を死に致すに足る極めて危険な行為であるとするのが社会通念であつたというべきである。してみれば被告人等は一般に社会通念上は人を殺すに足るものとされている人の静脈に空気を注入する行為を敢行したものであつて、被告人等の本件行為が刑法第百九十九条にいう「人を殺す」行為に該当することは論をまたないのみならず、右の行為が医学的科学的に見て人の死を来すことができないものであつたからといつて直ちに被告人等の行為を以つて不能犯であるということはできない。そればかりでなく、静脈内に注射した空気の量が致死量以下であつたとしても注射された相手方の健康状態の如何によつては、死亡することもあり得ることも亦前記古畑種基の鑑定書及び鑑定人中館久平の鑑定書により認め得るところであるから、被告人等の行為をもつて所論のいうような「丑の時詣り」と同視すべき迷信犯ということはできず、本件は不能犯であるとの所論は採るを得ない。論旨はいずれも理由がない。
(その他の判決理由は省略する。)
(裁判長判事 岩田誠 判事 渡辺辰吉 判事 秋葉雄治)
弁護人佐藤思良の控訴趣意
第二本件空気注射はその量はるかに致死量に及ばず絶対に死の結果を招来しないものであるのに原審が殺人未遂を以て処断したことは失当である。
空気注射による致死量は古畑鑑定によれば七〇C・C以上であり中館鑑定にあつては三〇〇C・C内外とされ本件注射量を以てしては一般に絶対に死の結果を招来するものとは認められないことは明らかである。更に喜美子について見ても本件注射によつては何等の異状さえ発生しなかつたことは喜美子の尋問調書等原審の証拠によつて明らかである。之を要するに何等実害の発生しない本件において殺人未遂を以て処断したことは失当である。
弁護人寺本勤の控訴趣意
第二不能犯の理論
一 不能犯の問題に関する判例の態度は一貫してはいないが、刑法学説にいう「客観的危険説」または「具体的危険説」のいずれかの傾向をくみ、「主観説」にはよらないことだけは、ほぼあきらかである。ここで、右の用語は熟したものではないので用語について、若干の釈明を要する。「客観的危険説」は、結果の発生が絶対的に不能なばあいは不能犯、相対的不能のばあいは未遂罪をもつて論じる見解を内容とする。「具体的危険説」は、行為者の実行着手の当時において、すでに一般的には認識可能でなかつたとしても、行為者本人が、特別の事由によつて知つていた事情を綜合して、一般的経験律に照らして考えたばあいに、結果発生の直接の可能性があるという判断に達したであろうと考えられるばあいは、具体的危険があるものとして未遂罪をもつて論じ、そうでないばあいを不能犯とする見解を内容とする。「主観説」は、未遂の本質をもつて犯罪意思にありとし、いやしくも犯罪の結果を予見して実行した以上、たとえ結果が発生しなかつたとしても、そして結果不発生の原因がなんであろうと、すべて未遂罪をもつて論じる見解を内容とする。ただし、判例は「主観説」をとらない。その理由を、つぎのように考えることができよう。まず、犯罪意思の点においては、未遂と既遂との間には、相違がない。しかも現行刑法は、未遂と既遂とを区別し、未遂は、ただ法の明文があるばあいにのみ処罰され、処罰も既遂に比して減軽される。これらの事実は未遂は既遂よりも違法性が低いことを示すに外ならないけども、決して、犯罪意思の軽重によるものでないことがわかる。右の理論をふえんすれば、不能犯の成否についても、「主観説」によりえない理由が導きえられる。たとえ、犯罪意思があり、犯罪の結果を予見して実行されたとしても、結果発生の危険がないとき、右の所為は、不能犯として、可罰対象としてはならない。
二 客観的危険説の立場からみた本件所為の評価 客観的危険説の立場からみて、本件所為は、結果発生の危険が絶対的に存在していない。原審判決は、「死の結果発生の危険が絶対にないものとはいえないものであることは明らかである。」というけれども、これに対する弁護人の反ばくは、前述のとおりである。<1>ある注射が、偶然に静脈注射とはならないし、<2>原審判決は、この点について、意識もなく、したがつて証拠調もしていない。<3>皮下注射または、筋肉注射の方法をもつてしては、本件の状況下では、致死量七〇C・C以上ないし三〇〇C・Cの空気注入は不能であるし、<4>両腕の皮下または筋肉に注入された三〇C・Cないし四〇C・Cの空気は、決して空気栓塞の作用はなく、<5>したがつて、両鑑定にいう致死量以下の分量でも、被注射者の身体的条件その他の事情によつては、死の結果発生もありうるという鑑定を、本件のばあいにあてはめた原審判決は、鑑定の理解方法をあやまつている。
三 具体的危険説の立場からみた本件所為の評価 具体的危険説の立場からみても、行為者の実行着手の当時において、行為者の意思および、その当時の一般的事情から判断して結果発生の具体的危険は存しなかつたものである。すなわち、喜美子殺害の手段として、<1>二〇C・C用注射器を用いたこと、<2>注射は、はじめから両腕に一本ずつなすことを予定し、それ以上の注射を予定していなかつたこと、<3>静脈注射の方法を意識せず、かつ、現実にも、皮下注射または筋肉注射であつたこと、<4>致死量についての錯誤があつたのではなく、はじめから、二〇C・C用注射器による両腕の注射だけが予定されていたこと、<5>喜美子は健康体であり、かつ、実行者は、喜美子の身体的条件の欠かんを意識しておらず、喜美子のばあいにかぎり、致死量以下でも殺しうるという特段の意識は存しなかつたこと、などから綜合して、結果発生の具体的危険も存しないといわなければならない。
四 不能犯についての弁護人の主張 おもうに、不能犯の概念は、犯罪の実行をくわだて、きわめて素朴な意味において実行と称すべき行為があつたにかかわらず、遂げ得なかつたもののうちで、とくに、結果発生の危険の乏しいものについては、これを未遂罪から除いて、不可罰行為とすることが、健全な法感情のうえからみて妥当であると思われるところに、その根拠をおくものであることは疑いない。前述の客観的危険説といい具体的危険説といい、より掘りさげた法理論の前にはたえがたく、結局は、右の健全な法感情にその根拠を求める以外に方法はない。さて、本件所為は、殺人の手段として、きわめて素朴な空気注入の方法を考えついた。両鑑定も明らかにするように、静脈に空気を注入(本件は、静脈に空気注入ではない)することによる死の結果については、はなはだ不確定な結論しか与えられていない。そしてまた、社会通念としての殺人方法ではない。射殺、絞殺、斬殺、刺殺、撲殺、毒殺等の殺人手段と、本件においてとられた手段とを比べあわすまでもなく、本件は、一般社会人の殺人手段として熟したものではなく、かつ、現実にも殺人手段となりえないものであつた。右のことからいいうることは、本件行為者は、いかなる殺人手段をも辞せない殺人犯罪適格者が、たまたま、空気注入という殺人方法を用いたのではなく、社会上、一般に存する前記殺人手段を取りえない性格の者、つまり、一般的殺人手段の前に恐懼する行為者が、このような安易な方法にたよろうとしたのである。このようなばあい本件所為は、単に、結果発生の危険がないから罰すべからずというだけにとどまらず、本件行為者は、性格的にも、なんら現実の殺人手段を行う危険もないといわなければならない。
五 原審判決の引用する大審院判決について 原審判決は、本件を不能犯とすることができない論拠の一つとして、大審院昭和二、一二、三判決、および、同昭和一五、一〇、一六判決を引用している。ところが右両判決の事案は、本件のばあいとは、まつたく性格を異にしたものである。まず、大審院昭和二、一二、三判決についてみる。事案は、犯行者甲が、乙を殺害しようとして毒薬「猫イラズ」を乙に服用させたが、分量が不足であり、かつ、乙が応急手当を施したため、死に至らなかつた事例である。つぎに、大審院昭和一五、一〇、一六判決についてみる。この事案は、犯行者Aが、Bを殺害しようとして、前夜、釜の中の米に、毒物黄燐を投入し、釜の米は、翌朝、飯に炊かれた。そして、その飯をたべようとしたBは、その異臭と怪光とに驚いてこれを食べなかつたため、殺人の目的を達しえなかつた事例である。「猫イラズ」の事例は、分量が致死量に達しなかつたという理由で、「黄燐」の事例は、釜中の米に投入した黄燐は、炊飯のとき、煮沸によつて黄燐の一部が発散し、致死量に不足したからという理由で、それぞれ被告人側から不能犯の主張があつたが、裁判所は、これを排けて殺人未遂罪をもつて論じた。右が、原審判決の引用する大審院判決の内容であるが、これは当然のことである。「猫イラズ」が毒薬であること、黄燐が毒物であることは、社会一般に公知のことである。そして毒殺の手段として、かつて、猫イラズは首位をしめ、しばしば自殺にも用いられた。黄燐は猫イラズの主成分である。それに比べて、空気注射が殺人手段となりうるということは、一般に熟した感念ではない。また、その方法も、前述のように「静脈注射」でなければならず、ただ慢然と空気を両腕に注射すればいいというものではない。つまり、被被告人らは、空気栓塞の危険が生じうる空気注射とは、「静脈注射」であることを充分に意識していた上に、これを行つたのではない。だからこそ、空気栓塞の危険は、現実に存しなかつたのである。猫イラズや黄燐を用いて毒殺の手段とした引用大審院判例の事案とは、比すべきもない。被告人らの所為は、不能犯の典型である迷信犯、たとえば「丑の時詣り」と大差がない。
(その他の控訴趣意は省略する。)